2013-02-27(Wed)
苫小牧の西側に大きな工場の跡があります。
廃墟になってずいぶんと経つそうですが、どのくらいなのかはわかりません。
母曰く10年は経ってると思う。とのこと・・・
白老電子と、言うそうですがこれも定かではないようです^^;
母の知り合いが務めていた場所です。

立ち入り禁止の札がないものの、こうロープを張っていると入る勇気が萎えます。

ここに当時は社名が刻まれていたんでしょうね

しっかりと板が張り付けられていますが、電子工場と言う事で・・・
工場好きな私の想像では、中は相当期待できそうです。

当時の専用バス停がいまだに残っています。

デスク系の備品がそのままなんでしょうか?

今となってはサッカーの試合場所として使用されています。

手前のプレハブはサッカー場としての使用者のものです。

中に入ってみたいものの、一人では怖いし・・・
1台の乗用車のおじ様二人が偵察か何かでデジカメを持ちながらうろうろしてました。
白老電子と言う社名も定かではないし、、、本当に情報がないです。
本当に気になる建物です。ぜひ中を見てみたいものです。
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おばんでございます。いやぁ~懐かしい建物ですね、まだあったんですね。たしか白老電子で良かったと思いますよ。
記憶が曖昧ですが、違う社名もあったかもしれません(ちょっと自信がない)白老かその付近にも工場があったかと思います。(昔の記憶なので)ここは私が室蘭在中の頃にいた会社のライバル会社だったところです。私が苫小牧住みつき始めたころに探索して見つけた記憶があるので20年はたっているとおもいますよ。
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白老電子から北海道三協に社名が変わってますね
白老 糸井 錦岡と工場がありましたよ
糸井工場は今はパチンコ店になってしまいました
こんにちは!
白老電子って結構大きな会社だったんですね!
20年も経っているんですか?!
20年・・・それにしては綺麗な建物のような気がしました^^;
今となっては駐車場だったのか、広い敷地内でサッカーをやっているみたいです^^
こんにちは!
やっぱり社名変わっていたんですね!
北海道三協も今となってはないですよね。
3か所に工場があったという事は相当大きな会社だったんですね!
糸井でパチンコ屋と言えばあそこですね(笑)
おんざ様
はじめまして
工場の跡地の写真を拝見してて、なんとも驚いておりました。
驚くというのは、僕自身、この工場で若い18~21際まで工員として働いた深い思い出があるからです。
この工場は僕が入社した当時、白老電子錦岡工場と言いました。
三協精機の系列下請け工場です。
主に、テープレコーダーの磁気ヘッドを作っていました。
当時、回転リバースという、テープが巻き終わると自動で裏面が再生できるように画期的な部品も作っていました。
また、完全無塵室の一画をつくり、そこで当時量産が本格化しつつあったフロッピーディスクの生産も行われていました。いわゆるこの工場は80年代の先端のハイテク電子部品工場でした。
この工場のほかに、白老電子にはもうひとつ糸井工場というのが国道沿にありました。
主に地元や近隣の高校で大学進学をしない若者が、ひとつの安定した就職先として学校から斡旋されました。
僕は1983~87年までこの工場で働きました。
この錦岡工場には電子、電気工学系の技術スタッフと二交替で勤務する工員、昼間の製造ラインの女工さん、合わせて200~300名ほど従事していました。
毎日大きな会社の送迎バスや工員の通勤自動車でこの山奥はとてもにぎやかでした。
僕が退職後、三協精機の完全子会社になったと聞きました。
僕が従事したのは配属は磁性機器事業部、メタルヘッドの製造ライン。
僕は研磨から組み立てまでを経験しました。
でも、当時、大学進学をやめこの工場に就職したとき、自分がどう生きていったらいいのか、何も目標がありませんでした。漠然と、複雑で単調に正確に動く機械と一体化していく自分たち工員にはいったいこの先どんな夢や希望があるのかといつも悩んでいました。
しかし、この工場は先端の精密電子部品工場だけあって、当時メイドインジャパンの技術を支えたとても優れたQC管理技術を働きながら学ぶことができました。
三協精機の社内QC資格技能試験制度もあり、毎年、各製造ラインで推薦された熟練工員にその受験資格が与えられました。僕も3年目に上司にやっと推薦されることになり、1年間、社内に設けられたQC管理セミナーの勉強会に参加することができました。一年後、僕はその年受験したQC技能試験で上位2位の成績で合格することができました。
僕は生まれて初めて学ぶことの面白さ、尊さをこの時、知りました。
技術とは人のためにあるもの、、
そう教えられたのもこの工場のQC管理からでした。
僕は22のとき、働いたお金で生物系の専門技術を学びたくなり専門学校に入学しました。
現在僕は、多くの食品企業の食品安全、品質管理の技術顧問としての仕事をしています。
そして、どんな場面でもこの錦岡工場で学んだQC管理の原点を一時でも忘れたことはありません。
この工場の写真をみたとき、涙がでるほど感激したのです。
当時の息遣いがそのまま工場の中に漂っているのだと感じました。
ちなみに、サッカーゴールのあとは、当時僕たち若い工員で結成したサッカーチームでつかったものです。
何もかも、懐かしく、当時のままだあることにただただ驚きと深い感動を覚えます。
ありがとうございました。
おはようございます!
コメントありがとうございます♪
この白老電子で働いていた方とこうやって出会えるとは思っていませんでした!
いや、心の中ではもしかしたらって期待もしてましたが!!!
嬉しいです!コメント本当にありがとうございます!
今はココもすっかりと更地になってしまい、土台?基礎?が残ってる程度です。
しかし、苫小牧でそんな最先端のものを作っていたなんてΣ(゚Д゚;≡;゚д゚)
糸井工場の方はたぶんパチンコ屋のある部分だと思います。
噂で聞いた程度ですが・・・
今となってはここの奥は民家がぽつぽつとあり、クマも出るようです^^;
私の雑な写真で感激してくださるとは><
更地になる前に敷地内に入って見たんですが、とても綺麗な建物ですよね!
しかもサッカーゴールもそのままだったとは!
バス通勤があったと言う事は会社の寮などはなかったんですね~。
ここで200~300人ですか・・・
凄いところだったんですね~。
若いころの経験が今もしっかりと活かされてるって素晴らしい事です!!
ずっと気になっていたところだからこそ、お話が聞けて良かったです!
私の方こそ、本当にありがとうございます!
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懐かしーね
24年前 働いてたな
長野から出張で 一緒に働いていた
人達に会いたいな
白老電子私は会社の行事ほとんど行かなかった。
それでよかった。私が自転車乗っていて女性に話しかけていたらそれを見ていた先輩が面白ろおかしくみんなに言ってよー。私が声かけているのが珍しかったか!
そんな会社の行事忘年会とか行っても、からかわれ役いじられ役にされるだけ!
今でも会社の行事とかは言っていない酒も飲めない。おもろない。小松のデブ、社員をよくも無理に参加させたな